明治と牛肉と不平等条約

 

 明治天皇が初めて牛肉を試食したのは、明治5年(1872年)1月24日であった。もとより明治元年、神仏分離令がすでに公布され肉食は庶民にも解禁されていたのであるが、欧米文化の象徴でもある肉食を明治帝自らが実践しこれを内外に示すことで、文明開化に憧れる国民は進んで肉を食べるようになっていった。

 当時「富国強兵・殖産興業」を国是とする明治政府が焦眉の急としたのは、その14年前の1858年、幕府大老井伊直弼が帝の勅許を得ないまま調印した日米修好条約を始めとする、いわゆる不平等条約と呼ばれる「安政五カ国条約」を改正することであった。そのため新政府は断髪、洋装の奨励とともに肉食という欧米の習慣と生活様式を積極的に取り入れることで、ヨーロッパ列強に劣らぬ文明国家を目指し、これを以て諸外国と対等な立場で条約改正に臨むことを目的としていたのである。

 そもそも日本で肉を食わせる店の嚆矢は横浜で居酒屋を営んでいた「伊勢熊」が牛鍋屋を開業したとされていて、ときに文久2年(1862年)のことであった。それは日米修好通商条約が締結されて4年後ことである。その後、文明開化の香りと「滋養に富む」という理由により牛鍋屋は増え続け、明治10年ころには500軒もの店が東京府下に存在していたというから驚く。

 一方、牛鍋の原料である牛は近江(おうみ)の国、つまり現在の琵琶湖東部で飼育されていた役牛であり、牛は陸路東海道を15~18日ほどかけて東京まで搬送されたが、後年には神戸港から日本郵船で海上輸送されたため、東京では牛肉と云えば「近江牛」「神戸牛」が有名となった。

 

 牛鍋の原料が関東近辺ではなく京都に近い滋賀県から供給されていたことを不思議と思うだろうがこれには理由がある。江戸時代、近江は彦根藩井伊家の知行地であったが、家康家臣で譜代大名筆頭井伊家では幕府の陣太鼓に使用する牛皮を献上するのが習わしで、公式に牛の屠殺が認められていた唯一の藩であった。さらには皮を剥いだあとの肉を「へんぽんがん(反本丸)」と称する味噌漬け肉や干し肉に加工し、養生薬として販売していたという歴史を有しており、こうした背景が明治黎明期の牛肉文化に大きく寄与したのではないかと想像される。

 ところで牛を解体処理する場所は慶応4年(1867年)に幕府天領の白金村、現在の東京都港区に幕府の許可を得て屠牛場が正式に開設されたのであるが、明治期に入り東京府下に4カ所、また浅草には官営屠場が設置された。

 そして明治20年(1887年)屠獣場取締規則が公布され、警視庁による食肉の検査が開始されることとなった。

 なお、不平等条約と云われた日米修好条約が改正され、新たに日米通商航海条約が締結されたのは明治44年(1911年)。井伊大老がアメリカ大使タウンゼント・ハリスと条約締結してから50年以上もの年月を要したのであった。

 

 

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